旧上田藩 武家屋敷が
花屋貴賓室に受け継がれるまで
名城として名高い上田城。
しかし、城下町たる上田の町にはほとんど武家屋敷が残っていません。
その貴重な武家屋敷であった「河合邸」が解体されるまでの歴史を紐ときながら、移築・再現した花屋貴賓室をご案内いたします。
河合邸は、上田城の正面口である二の丸橋の前にあった武家屋敷です。屋敷を囲む土塀が印象的で、江戸期の上田城下の姿を伝える景観として市民や観光客に愛されて来ました。
明治時代以降、上田の町は養蚕などの商工業によって大いに栄え、江戸時代の民家や商家の多くは取り壊されてしまいました。特に現存する旧上田藩の武家屋敷はほとんどなく、河合邸は上田城跡公園に隣接する最後の武家屋敷でした。
しかし残念ながら、平成二十八年の上田城跡公園周辺再開発により、河合邸は取り壊されてしまいました。
言わば絶滅寸前にある上田の武家屋敷が完全に失われることはあまりに惜しく、母屋の建具や建材を移して後世へと伝えようとしたものが、この旅館花屋貴賓室です。
河合邸の敷地面積は約300坪で、上田藩の上級武士としては平均的な屋敷の規模でした。門から入ってほぼ正面に式台玄関があり、そこから座敷へと繋がる建築構造となっています。客間として使用されていた部分が右図の赤く着色した部屋で、その他の部屋は家人が使用していました。江戸時代の図面を見ると、当時は敷地内に茶室や蔵などもあったようです。
河合邸の大きな特徴は、座敷の作りです。床の間の右に平書院、床脇に付書院と、二つの書院を持つ変則的な構造となっています。実は床脇の書院は「武者隠し」と呼ばれ、非常時に備えて書院障子の後ろに護衛の武士が控えている仕掛けでした。武芸の師範を勤めるなど、上田城前の護衛も兼ねていた河合家ならではのセキュリティーと言えます。
※い書院(平書院)
もともとは僧侶や貴族の書斎だったが、江戸時代になると床飾りの一つとなった。縁側に張り出した付書院と張り出さない平書院に大別される。
※ろ床の間
※は床柱
※に床脇(付書院)
通常はここに遠い棚がある。この書院障子の組子は極めて華奢な作りであるが、これは非常時には障子を突き破り、護衛が部屋の中に踏み入るための仕掛けと伝わる。
平成28年、解体前の座敷
有事への備えは、河合邸を囲む土塀にも見られます。塀の上には「忍者除け」と呼ばれる先の尖った釘を並べ、不審者の侵入を阻んでいました。一部ですが、こちらも桜御殿の周囲の土塀に再現しています。
河合邸の土塀の忍者除けで使用していた和釘。先端は今も鋭さを保っている。
解体前の土堀にあった忍者除け
玄関に床の間があるのは、上級武士ならではのものです。江戸時代、家の作りは身分制度によって厳密に決められていました。庶民は玄関を作ることすら許されなかったのです。貴族と武士の特権だった床の間や玄関はその家の誇りであり、憧れの存在でした。
解体前の玄関にあった床の間