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全国に残る武家屋敷をご紹介します 全国の武家屋敷
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    松江城下・武家屋敷


地 域 施設名 簡 説
松代の武家屋敷
(長野県)
真田邸
(国指定史跡)
九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、主屋、表門、土蔵7棟、庭園など、全体が残っている御殿建築は全国にもほとんど例がなく、非常に貴重なものです。
旧横田家住宅
(国指定重要文化財)
松代藩の中級武士の住宅の典型とされる屋敷です。間取りや佇まいに加え、さまざまな作物を耕作した菜園や泉水も、ほぼ当時の姿を伝えている点が見どころです。主屋は寛政6年(1794)の建築年代で、タイムスリップした気分が味わえます。
旧前島家住宅
(長野県宝)
上田、松代を通じて真田氏に仕えた前島家。真田氏が上田から松代に来た時から、この地に屋敷を拝領したと伝えられます。主屋は宝暦9年(1759)の建築との記録があり、現存する松代の武家屋敷の中で最も古い年代のものです。
旧樋口家住宅
(長野市指定文化財)
松代藩の目付なども務めた上級武士 樋口家。屋敷は、城から近い、藩の要職を務める藩士らの住まいが多く建てられた場所にありました。端正な美しさを持つ屋敷ですが、無駄や華美さは一切なく、松代藩の質実な気風がうかがえます。
旧白井家表門
(長野市指定文化財)
松代町表柴町に建っていた中級藩士の白井家から、幅20メートルにおよぶ長屋門を平成12年に移築復元したものです。建築年代は弘化3年(1846)であることが分かっています。旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものです。
山寺常山邸 松代藩士の武家屋敷の門としては最も長い、22メートルの長屋門を有する山寺常山邸。長屋門は、江戸時代後期から明治初期に建築されました。邸内の書院は、もう少し時代が下ってから建てられたものと云われます。
弘前仲町武家屋敷
(青森)
旧岩田家(県重宝指定) 今から約200年ほど前 寛政時代から文化年間に建てられた、茅葺きの旧武家住宅です。間口が狭く奥に細長い敷地や建物のみならず、その利用形態までもが江戸時代からほぼ変わっていないと云われています。
旧伊東家(県重宝指定) 藩政時代には代々藩医を務めた住宅を、昭和55年に元長町から移築復元したものです。今から約200年ほど前に建てられた中級武士の住宅の構造をよく伝える、貴重な建造物です。
旧梅田家 江戸時代末期に建てられた、茅葺きの旧武家住宅です。昭和60年に弘前市在府町から移築復元されました。天井がないため、小屋組という屋根を支える構造になっています。
旧笹森家 小規模の住居ながら、玄関から広間を通って床の間・縁側を設けた座敷に至る「接客を重んじる武士階級の住宅様式」で建てられています。弘前市仲町伝統的建造物群保存地区内に現存する最古の武家住宅です。
角館の武家屋敷
(秋田県)
石黒家(仙北市指定史跡) 角館で現存する武家屋敷の中で最も古い、築200年の建物です。佐竹北家の勘定役を務めていた最上級武士の石黒家は、現在も子孫が住み続け、内部見学ができる唯一の武家屋敷となっています。「解体新書の挿絵」など貴重な資料を見ることできます。
青柳家(秋田県指定史跡(主屋・門・蔵))青柳家 佐竹北家の家臣として納戸役を多く勤め、上級武士の仲間入りをするまでに家格を上げた青柳家は、角館を代表する武家屋敷です。3000坪の敷地には主屋、薬医門、蔵、塀、池泉回遊式庭園など武家屋敷の建築様式を備え、今に伝えています。角館歴史村・青柳家には、数々の貴重なコレクションが公開されています。
岩橋家(秋田県指定史跡) 会津時代からの芦名家の譜代の家臣の後に、佐竹北家の組下となった中級武士 岩橋家。江戸末期に改造された中級武士の屋敷内には樹齢300年を超える柏の巨木「縁起木」があり、この屋敷のシンボルになっています。「たそがれ清兵衛」の撮影場所でもある。
松本家
(秋田県指定文化財(母屋))
佐竹氏家臣・今宮家組下の下級武士 松本家。「烏帽子於也(えぼしおや)」の著者として知られる須藤半五郎を出した向学の家です。幕末の頃に建築された家屋は、下級武士の家屋として唯一のものとなっています。屋敷内では、イタヤ細工の実演が行われています。
河原田家(仙北市指定史跡) 会津時代からの芦名家の譜代の家臣の後、佐竹北家の組下となった中級武士 河原田家。明治中期に建てられた屋敷は藩政時代の武家住宅の形式を踏襲し、この地方に典型的な書院造りの様式を残しています。
小田野家(仙北市指定史跡) 今宮氏配下から佐竹北家の家臣になった中級武士 小田野家。「秋田蘭画(あきたらんが)」を形成したことで有名な小田野直武一族の屋敷です。杉田玄白らが翻訳した日本で最初の西洋医学の翻訳書「解体新書」の挿絵を担当しました。建物は明治期に再建されたもので、庭園内には小田野直武の胸像もあります。
西宮家 佐竹氏の直臣・今宮氏配下の家臣 西宮家。明治から大正時代に建てられた5棟の蔵と母屋が、商家が並ぶ外町の一角 田町の武家屋敷通りにあります。敷地内は、レストランや工芸品を販売する館などになっています。
太田家 広い屋敷地の庭には、多くの樹木が植えられています。周囲には黒板塀を廻らせ、銅葺きの薬医門を構えています。(非公開)
安藤家・蔵座敷 創業嘉永6年(1853)味噌・醤油の醸造元と漬け物の製造元の屋敷です。明治中期に建てられたレンガ造りの蔵座敷は、火災に備えて設計されました。
旧黒澤家住宅(武家住宅)
(国指定重要文化財)
所在地/秋田市楢山
今から約300年前に建てられた、上級武家屋敷住宅です。当時の中通地区(現在の秋田市中通三丁目)は三廓(さんのくるわ)と呼ばれ、上級、一部中級の武家住宅を配置し、久保田城の正面の守りとされていました。江戸時代において藩士の住宅は藩の所有物で、藩士の身分、石高に応じてあてがわれていたため、藩の都合や藩士の身分の変化により住居者の変更が行われました。旧黒澤家住宅も芳賀家、赤田家、吉成家、平井家、黒澤家の順に変わっています。 文政12年(1829年)から住居した黒澤家は、石高五百石、山奉行、寺社奉行の要職を務めた上級武士です。
旧金子家住宅(商家)
(秋田市指定文化財)
所在地/秋田市大町
旧金子家は江戸時代後期に質屋・古着商を開き、明治初期に呉服・太物卸商として創業しました。この建物は、昭和57年まで商売が営まれたのち、平成8年に秋田市に寄贈され、平成9年に江戸時代後期の伝統的な形式を継承した建物として秋田市有形文化財に指定されています。建物は、主屋一棟、土蔵一棟で構成されています。
金ケ崎の武家屋敷
(岩手県)
旧坂本家住宅 文政年間(1818~1829)に伊達氏の預足軽から大町氏の家臣となった旧坂本家。天保年間(1830)に当屋敷を拝領し、現存の主屋を建てています。屋敷は560坪あり、主屋の他に生け垣、庭が残ります。主屋は、桁行8間、梁間4.75間の喰い違い4間の間取りです。
土合丁・旧大沼家侍住宅 大町氏の譜代の家臣 旧大沼家。正保元年(1644)大町氏が藤沢から移封となった際にお供してきました。「大沼家先祖書留」には文化14年(1817)に古家を拝領したとの記述があります。主屋は、桁行7.5間、梁間4.5間の喰い違い間取りです。
片平丁・旧大沼家侍住宅 要害大庭に沿った屋敷には、主屋、馬屋、庭が残っています。主屋は桁行7.5間、梁間3.5間の広間型3間取りで、18世紀末頃の創建と考えられます。明治期に建てられた馬屋は、保存地区内唯一の遺構です。平成18年、創建当初への復元と併せて厠を新築。当地方特有の建物配置である三ツ屋形式を復元しました。
鈴森家住宅 淨信院と称する修験(山伏)の家 鈴森家。主屋は、桁行6.5間、梁間4間の喰い違い6間取りで、侍住宅としてばかりでなく、修験者の建築遺構とも見ることが出来ます。明治10年代の創建と考えられています。
大松沢家住宅 山林奉行を務めていた大松沢家。表小路と達小路境の枡形道路沿いに位置しています。屋敷は約760坪あり、四脚門(江戸時代後期)、板塀、石積み、エグネ、庭園が残っています。
大松沢家住宅の主屋・庭 築山を中心とした大庭園には、エノキやカエデ等の巨木があり、四季折々の多様な色彩で人々の心を和ませてくれます。大正時代末から昭和時代初期に建てられたと伝えられる主屋は、やや洋風を感じさせる瀟洒な建物です。
笹井家住宅 小姓組などを務めていた笹井家。約1000坪ある屋敷には、石積み、生け垣、主屋、土蔵、庭が残ります。主屋は桁行9間、梁間4間の整形田の字型4間取りで、明治中期以前の創建と考えられています。古い侍住宅の形を踏襲した建物です。
佐藤家住宅 表小路南側、枡形道路沿いにある佐藤家。約1000坪ある屋敷には、石積み、生垣、庭園、主屋、板倉、土蔵、便所、風呂、エグネが残ります。整形田の字型4間取りの主屋は、明治35年の創建。侍住宅として完成された姿を伝えています。主屋と小路の間には、築山山水型の美しい庭園が広がります。
伊東家侍住宅 六軒丁北西側、表小路との境に位置する伊東家。約750坪ある屋敷には、生垣、庭、主屋が残ります。主屋は、桁行7.5間、梁間4.5間の整形田の字型4間間取り。平成19年、一部創建時に復元しました。
三好家住宅 江戸時代は黒田家だった屋敷には、石積み、生垣、棟門、主屋、庭が残ります。門(江戸時代末期)からは、河原石敷に導かれてサルスベリの前を通り、玄関にいたる造りです。主屋は広間型3間取りで、18世紀中期頃の創建と考えられます。
大沼家住宅 大町氏のお抱医師であった大沼家。約860坪ある屋敷には、石積み、生垣、庭、主屋、エグネが残ります。主屋は、桁行8間、梁間4間の整形田の字型4間間取りで、江戸時代後期の建築だと考えられています。小路と平行な横屋が希少です。
菅原家住宅 江戸時代は狩野家であった屋敷は約600坪あり、石積み、生垣、庭園、主屋、エグネが残ります。主屋は、桁行8間、梁間4.5間の喰い違い6間取りです。サルスベリの巨木を中心とした庭園は、近世期の武家屋敷の形態をよく残しています。
添田家住宅 大町氏の家老を務めていた添田家。約1400坪ある屋敷は二の丸裏門に通ずる裏小路に位置し、門、板倉、作業小屋、主屋、庭、生垣が残ります。主屋は、桁行9間、梁間5間の喰い違い4間取りで、門や板倉とも江戸時代後期の創建と考えられます。
白糸まちなみ交流館
(旧高橋家住宅)
旧高橋家住宅は「金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区」にある武家屋敷の遺構です。現在は「白糸まちなみ交流館」として保存活用されています。
水沢の武家屋敷
(岩手県)
内田家旧宅
(市指定有形文化財)
内田家の初代は16世紀の後半に留守政景(伊達政宗の叔父)に召し抱えられ、足軽奉行を務めたと云われています。慶応2年(1866)に記された「水沢家中家並覚牒」に、大番役・内田勘之丞とある屋敷が、この内田家旧宅です。弘化4年(1847)には、余目家に次ぐ家中第2位の96石2升の禄高がありました。
後藤新平旧宅
(県指定有形文化財)
慶応2年(1866)に記された「水沢家中家並覚牒」に、奥小姓頭・後藤佐伝冶とある屋敷が、この後藤新平旧宅です。18世紀中頃に建築されています。現在の間取りなどは晩年の後藤新平が行った修理を受け継いだもので、茅葺の厠(便所)と板倉が主屋裏に残ります。
小幡家 留守氏家臣 小幡家。長屋門形式の表門を持つ、唯一の武家屋敷です。
安倍家 留守家の大番士を務めた家臣 安倍家。この小路は江戸時代から「日高小路」と呼ばれ、武家屋敷が配置されました。屋敷構えや屋敷内に生い茂る老松などの樹木に、江戸時代の武家屋敷の景観をとどめています。
吉田家 留守氏家臣 吉田家。江戸時代の薬医門が残ります。
高橋家 留守家の大番士を勤めた家臣 高橋家。この大畑小路は江戸時代に「吉祥寺前小路」や「東大畑小路」と呼ばれ、武家屋敷が配置されました。
白石の武家屋敷
(宮城県)
旧小関家
(宮城県指定文化財)
片倉家中旧小関家は、後小路(うしろこうじ)に佇んでいます。白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した町並みは、かつては中級武士の屋敷がありました。現在も静かな住宅地です。
上山の武家屋敷
(山形県)
森本家 藩校明新館の教師や藩主の訓育掛を務めるなど、漢学の造詣も深く、文筆にも長じていた11代秀晋。70石を給された秀晋は、この本邸を「錦繍亭」と愛称し、庭園を「黄華園」と命名しました。早春の黄華を好んで鑑賞した面影は、今も遺っています。現在の当主は15代目です。
三輪家 三輪家初代飯田小助(初名)は、豊前国中津藩奥平氏に仕えていた飯田一翁の次男。寛政8年(1796)に藤井松平氏11代信古の家臣となり、初めて三輪氏を名乗りました。3年後には家禄100石10人扶持を給され、名も十郎佐衛門重胤と改め、江戸藩邸上屋敷に勤務。後に側用人準参政となりました。
山田家 山田家の先祖は、常陸国茨城郡笠間の出自です。元禄10年(1697)頃には、藤井松平氏の家臣として現在の屋敷に居住していたことが分かります。宝歴3年(1753)4月から、上山に定住した恒右衛門を初代としています。
旧曽我部家 上山における曽我部家の初代 宗八。宝永5年(1708)藤井松平氏の代、信通の家臣となり、宗旨奉行や馬廻役を務め、家禄50石、後に100石を給されました。2代勇八は70石で徒頭を務め、3代右介は天明3年(1783)大目付となり85石に昇進。代々要職に就いています。
春雨庵 寛永6年(1629)紫衣事件により上山へ流罪になった大徳寺の沢庵禅師に、城主土岐頼行が建てたとされる草庵です。禅師はここで3年ほど暮らしました。現在の庵は昭和28年に復元されたものです。
村上の武家屋敷
(新潟県)
若林家住宅
(国指定重要文化財)
今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士若林家と、その子孫が生活した建物です。
旧岩間家住宅
(市有形文化財)
現在の新潟県村上市飯野二丁目にあったものを現在地に移築復元した建物です。旧所在地は、江戸時代には五軒町と呼ばれていたところで、町人町(細工町)と接していました。明治初年の城下絵図によると、この岩間家の位置に「須貝勝太郎」と記されていることから、もとはこの村上藩士須貝勝太郎の屋敷であったと推定されます。
旧嵩岡家住宅
(市有形文化財)
旧嵩岡家住宅のある新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。嵩岡家は村上藩では中級に位置する武士でした。代々100石を給されていたと考えられます。
旧藤井家住宅
(市有形文化財)
楯にも使用された梁の仕口に記されていた墨書から、江戸時代後期の嘉永3年(1850)に建てられた住宅であると推定されています。
旧成田家住宅
(市有形文化財)
旧成田家住宅のある現在の新潟県村上市新町は、江戸時代の内藤氏治世下においては旧武家町に属しました。村上城本丸に通じる下渡門の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところです。
佐倉の武家屋敷
(千葉)
旧河原家住宅
(千葉県指定有形文化財)
旧河原家住宅は、知行300石の藩士の住宅です。建築様式(間取り・構造・部材の風蝕など)から、佐倉で最も古い武家屋敷と云われています。
旧但馬家住宅
(佐倉市指定有形文化財)
旧但馬家住宅は、知行150石の藩士の住宅です。建造物のみならず、屋敷地の形状や植栽にも武家屋敷の特徴を残しています。
旧武居家住宅 「天保の御制」に定められた、百石未満の藩士が住む小屋敷です。江戸時代の建築時は、茅葺きの屋根でしたが、茅不足や維持費のこともあり、移築時に銅板で葺かれたようです。
旧堀田邸 冠木門
(国指定重要文化財・
旧堀田家住宅)
旧堀田邸は堀田正倫の邸宅で、明治23年(1890)に竣工しました。明治44年(1911)には湯殿が増築され、現在は主屋や門番所、土蔵などの建物と庭園が残されています。現存する明治期の旧大名家の邸宅として、数少ない貴重なものです。
長町武家屋敷
(石川)
野村家 天正11年(1583)藩祖前田利家が金沢城に入城し、加賀百万石の基礎が築かれました。直臣として従った野村伝兵衛信貞家は、禄高1000石から1200石と累進し、代々を御馬廻組々頭、各奉行職を歴任します。千有坪(三千平方米余)の屋敷を拝領し、家督は11代にわたって明治4年の廃藩に至った、由緒ぶかい家柄です。
高田家 加賀藩五百五十石平士の高田家屋敷跡には、かつてあった長屋門が復元されています。高田家は、(家禄が八十石から二千四百石の)平士階級に属し、文字通り中級の家格でした。長町界隈には、このような平士が多く住んでいました。
新家邸長屋門
(市指定保存建造物)
もと、加賀藩士の桑嶋氏住宅長屋門です。亀甲積みとした基礎、疎石、礎盤などの役石をすべて戸室石とし、門を構成する柱は根具金具打ちとするなど、加賀藩中級武士住宅の風格を見せています。
大屋家
(市指定保存建造物)
藩政時代の直臣平士級の武家屋敷の遺構です。門を構え、敷地周囲に土塀を巡らし、広い庭を持っています。建物は建具を含めて、内部も当時の状態をよくとどめています。
大野の武家屋敷
(福井)
旧内山家 幕末期に大野藩家老として活躍した内山七郎右衛門良休やその弟の隆佐良隆を輩出した、内山家の旧宅です。母屋は平入りの木造切妻造り桟瓦葺二階建てで、明治15年(1882)頃に建てられたものです。大野城下の武家屋敷の旧態を比較的よく残していると云われています。
田村家 田村家は大野藩の家老職を代々務めた田村左兵衛を本家とし、8代鋼三郎の現当主に続いています。当初は茅葺きだった屋根など外観は変わっているが、内部の座敷などの構成は昔のままということです。
松江城下・武家屋敷
(島根)
武家屋敷(城下町) 松江藩の中級武士の屋敷が並んでいた一帯。松江藩の600石程度の中級藩士が、江戸時代初期から屋敷替えによって入れ替わり住んだ武家屋敷です。
小泉八雲旧居 新聞記者として1890年(明治23)に来日した八雲は、島根尋常中学校などの英語教師として約1年3か月を松江で過ごしました。武家の娘、小泉セツと出会い、塩見縄手の侍屋敷根岸宅で生活を共にしました。
萩城下・武家屋敷
(山口)
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
(国指定重要文化財)
旧厚狭毛利家は、元就の5男元秋を始祖とする総石高8371石余りの毛利氏一門です。現在は、安政3年(1856)建築の長屋のみ残っています。本瓦葺き入母屋造り全長51.4mの長大な長屋は、現存する萩の武家屋敷の中では最大の規模を誇ります。
口羽家住宅 永代家老に次ぐ家柄の寄組士の、なまこ壁と白壁が美しい住宅です。主屋と表門は国の重要文化財に指定されています。
旧二宮家長屋門 大組の長屋門です。当主二宮就辰は、毛利元就の息子で、輝元の側近として仕えました。
旧祖式家長屋 主計頭の祖式家の長屋です。古い格子が美しい長屋は長さ約10m、奥行き約5mの平屋建てです。
北門屋敷 吉敷毛利家屋敷跡の、三千坪の敷地に建つ宿です。
菊屋家住宅 萩藩の御用達を務めた、豪商・菊屋家の屋敷です。江戸前期に建てられ、幕府巡見使の宿として本陣にあてられました。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されています。
旧久保田家住宅 呉服商・酒造業を営んでいた旧久保田家の住宅は、幕末から明治前期の建物です。屋根裏には、物置や使用人の寝間を設けた「厨子二階(つしにかい)」があります。
松下村塾(国指定史跡) 幕末に吉田松陰が主宰し、身分や階級に関係なく門下生を受け入れた私塾の小舎です。約1年1カ月の間、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など維新の原動力となった逸材を育てました。
伊藤博文旧宅
(国指定史跡)
初代内閣総理大臣の伊藤博文が、安政元年(1854)の14歳から28歳まで伊藤直右衛門の養子として過ごした木造茅葺き平屋建てです。約29坪の質素な住宅となっています。
玉木文之進旧宅 玉木は松陰の父・杉百合之助の末弟で、天保13年(1842)ここに松下村塾を開きました。「松下村塾発祥の地」です。
杵築の武家屋敷
(大分)
磯矢邸 元治元年(1864年)建築 家老加藤与五右衛門の屋敷。藩主の休息所である御用屋敷の一部に使われたことがあります。
能見邸 寛政の大火(1800年)以前は、岡藤介(300石)の屋敷でした。火災後は、楽寿亭の御用屋敷に加えられて菜園場となり、その後に能見氏が入ったものと思われます。
大原邸 杵築藩の上席家老大原氏の屋敷で、北台武家屋敷を代表する建物です。茅葺きの堂々たる屋根、庭園も立派で、杵築における最も貴重な遺構の一つです。
中根邸 文久2年(1862年)に建築された、家老中根源右衛門の屋敷です。
一松邸 杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅です。昭和2年9月から2年間かけて建てられたこの邸宅は、当時の贅と技術の粋を結集した造りとなっています。
竹田の殿町
武家屋敷(大分)
古田家中間長屋門 長屋門の半分は、弘化4年(1847)に建てられた中間長屋が基を成しています。江戸時代の間は、中間長屋として利用されました。
長尾家 長尾家は奉行職を務め、当時は見事な庭園があったといわれています。
北條家 岡藩8代藩主久貞候の側室北條織江の生家です。孫の久持は、15歳で第9代藩主となりました。
臼杵の武家屋敷
(大分)
稲葉家下屋敷
(国登録有形文化財)
廃藩置県に伴って東京へ移住した旧藩主・稲葉家の臼杵滞在所として、明治35年(1902年)に建築されました。 三の丸一帯には重臣の屋敷や評定所、米蔵などが連なっていました。
旧平井家住宅
(県指定有形文化財)
安政6年(1859年)に建てられた武家住宅です。江戸時代には、藩主の親類にあたる稲葉家(禄高200石)の居宅として使用されていました。臼杵藩では上級武士の住宅です。
旧丸毛家住宅
(市指定有形文化財)
上級武士の屋敷であった旧丸毛家住宅は、接客や体面を重んじた武家の格式を知ることができる建物です。丸毛氏は美濃国(岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣だった斎藤氏の一族。三代藩主一通が200石を与え、召し抱えられました。
旧斎藤家住宅 美濃国(今の岐阜県)出身の斎藤氏は初め、筑後の有馬氏に仕えていました。その後、斎藤利隆の二男である利長により150石で臼杵藩主第5代景道に召し抱えられ、臼杵に住むことになりました。
出水麓の武家屋敷
(鹿児島)
御仮屋門(県指定文化財) 藩主が地方巡狩(巡守)や参勤をする途次の際の、宿泊所・お仮屋です。江戸の初期に島津家第17代義弘が、帖佐から移したものと云われています。現在は、出水小学校の正門となっています。
竹添邸(市指定文化財) 竹添家は、肥後の国人吉、球磨城主相良氏の一族です。寛永14年(1637年)米ノ津から麓へ屋敷が移り、代々組頭や「あつかい」など出水郷の要職を務めました。建物の建築は、明治初期を下らないとされています。
税所邸(市指定文化財) 税所家は関ヶ原の役前年に加世田から移住を命ぜられ、代々「あつかい」などの出水郷の要職を務めました。雨天時の弓の練習場所や、隠れ部屋、抜け道など当時を偲ばせるものが残されています。建物建築は出水郷では最古と云われています。
武宮邸 武宮家は天正年間に出水に移り、代々組頭や「あつかい」など出水郷の要職を務めました。その位置は御仮屋のすぐ西、亀ケ城の大手口にあたる重要な所です。建物の建築は明治初期以前と推定されています。
伊藤邸(市指定文化財) 伊藤家は代々「あつかい」役の要職を務めました。武家門や蔵、板塀など、代表的な武家屋敷です。
入来麓の武家屋敷
(鹿児島)
旧増田家住宅 旧増田家住宅は、明治2年(1869年)の廃仏毀釈で、廃寺になった延命院の跡地の一部に建てられたと思われます。敷地の入り口には、明治6年の石敢当が据えられていることから、母屋はこの頃の建築と推定されます。敷地には、母屋の他に石蔵と浴室便所、洗い場が建てられています。
知覧の武家屋敷
(鹿児島)
西郷恵一郎庭園(名勝庭園) 西郷恵一郎氏庭園は、庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈込まれたイヌマキは遠くの連山を表現しています。
平山克己庭園(名勝庭園) 平山克己氏庭園は、母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園です。北側の隅には石組みを設けて主峯となし、イヌマキの生垣は母ヶ岳の分脈をかたどっています。
平山亮一庭園(名勝庭園) 平山亮一氏庭園は、石組みが一つもない大刈込一式の庭園です。イヌマキによる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山をかたどっています。母ヶ岳を庭園に取り入れた借景園です。
佐多美舟庭園 (名勝庭園) 佐多美舟氏庭園は、寛延4年(1751)に造られたと云われます。知覧庭園の中では最も豪華で、広い庭園です。枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には、各所に巨岩による石組みを設けています。
佐多民子庭園(名勝庭園) 佐多民子氏邸庭園は、巨石奇岩を積み重ね、深山幽谷の景を写しだす庭園です。
佐多直忠庭園(名勝庭園) 佐多直忠氏庭園は、借景の母ヶ岳を望む庭の一隅に石で組まれた築山を設け、その中心部に立石と枯滝の石組みを配した庭園です。
森重堅庭園(名勝庭園) 森重堅氏庭園は、曲線に富んだ池に奇岩怪石を用いて近景の山や半島をあらわし、対岸に洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している庭園です。知覧の庭園には珍しい池泉式庭園となっています。
旧高城家住宅庭園 旧高城家住宅は、明治以前に建てられた武家住宅です。「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つがあるという特徴があります。他の知覧型二ツ屋と同様に「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いたタイプのもので、知覧だけにみられる庭園様式です。